ルカの福音書15章には失われた人を探す神様の愛を見せる放蕩息子の話が記録されています。私たちは普通、父の家から離れて財産を使い切った次男だけを放蕩息子だと思います。しかしその家にはお父さんの真の愛を悟ってないまま枯れて、形式的な人生を生きていた他の放蕩息子、即ち兄息子もいました。
1.他人を判断する人生
弟が父の財産を貰って家を出て放蕩した生活を楽しんだこととは違って、兄息子は家を守りながら任された役割も熱心にしていました。しかし彼の心には喜びも満足もなく、彼の霊は深く病んでいる状況でした。自分はいつも模範的で正しく義理堅いが、弟はそうではないという考えにとらわれて兄弟を判断し、非難していました。自分がすべての中心になって自分の考えや判断だけを絶対的の基準にし、他人を非難することは霊的な高慢であり、主が禁じられたことであります(マタイ7:1-2)。私たちは自分中心の物差しで手にある憎しみと定めの石を降ろして、赦しと愛を施しながら生きていかなければなりません。
2.怒る人生
ある日、兄息子が外で仕事して帰る途中、家から音楽や踊りの音が聞こえました。家を出た弟が帰って来たことを喜んでいたお父さんが宴会を開いたからです。しかし兄息子は帰ってきた弟を見て喜ぶところか家にも入らずお父さんに対して強く抗議をしました(ルカ15:28,30)。彼は弟に対する父の愛深い態度が不満であり、怒っていました。自分の基準から外れることにぶつかると不満を抱き、怒る人々は兄息子の姿と似ている姿です。クリスチャンは、相手の立場を共感し理解する人、配慮する人生を生きていかなければなりません。
3.父の愛にたてつく息子
父は家に入ろうともしない兄息子とともに家に入るためなだめました。しかし兄息子は恨みと不満をこぼしてお父さんを薄情だと非難しました(ルカ15:29)。これは自分の怒りに対する正当化であり、お父さんに対する否定的な自画像を表現したことです。彼の見かけは孝行息子のようだったかもしらないですが、自分の弟を赦せずお父さんの愛を非難する霊的な渇きを持っている人でした。愛の欠乏はこの世のすべての問題の原因であります。イエス様を中心に迎え入れて生きる私たちはいつも愛で一つになり、赦しを実践する共同体にならなければなりません。ただ神様が喜ばれる教会になって、愛を実践する中でリバイバルしていく私たちになるように主の御名でお祈りいたします。