古代ギリシアには俳優たちが多様な感情を表す仮面をつけて演劇をしました。その仮面をペルソナと言いました。しかし演劇だけでなく、実際人生の中でも仮面を被って生きている人々がいます。イエス様を信じ聖霊様を迎え入れて生きるクリスチャンたちは、人本主義の仮面を脱ぎ捨てて、ただ神様の召しにしたがう人生を生きていかなければなりません。
1.柴の人生
ナイル川に捨てられて死ぬ運命であったモーセは、ファラオの娘に発見されて王子の身分になって40年を生きました。しかし彼はイスラエル人を虐待するエジプト人を殺したことにより、犯罪者、逃亡者の身となりミディアンの地でまた40年を過ごしました。80歳の老人になってすべての人生の夢を捨てて無気力に住んでいたある日、神様はホレブにある柴の茂みを通してモーセに会ってくださいました(出3:1-2)。血の気と固執、短気な性格と感情、自己中心的であり肉体的な人生を生きているすべての人は、棘だらけの柴の茂みのようです。そのような人生に夢と希望を与え誠の命を与えられる方は、ただイエス・キリストだけです。
2.燃える柴
モーセが柴の茂みを注目した理由は、その柴に火が付いているのにも関わらず全然燃え尽きてない光景のせいでありました(出3:2-3)。神様は何の役にも立たないその柴の茂みに火を付け、その場所をモーセの人生の転換点としてつくられました。乾いた棒のような私たちの人生もイエス様を迎え入れて、聖霊の炎が燃え上がる時、初めて神様から用いられます。人間の知識と経験がいくら多くあったとしても、聖霊の炎が消えていると神様の目では一つの柴に過ぎません。いつも聖霊充満を受けて、肉身と快楽,貪欲を打ち破り、情熱的な福音の証人としての人生を生きる私たちになるように主の御名でお祈りいたします。
3.私を呼びかけられる神様
神様はモーセが見ているその柴の茂みの中から彼の名前を呼びかけられました(出3:4)。「モーセ、モーセ」と呼びかけられる神様の御声は、過去80年の間、モーセが聞いた無数の声とどのような話よりもっと価値があり、意味ある召しでありました。私たちはこの世を生きている間、私たちの羊飼いであり、主人であられる主の御声を聞いて答えることが一番重要であることを忘れてはいけません。いつも目覚まして主の御声に敏感に反応し、私たちを呼びかける目的に従って信仰の尊い前進をする私たちすべてになりますように、主の御名によってお祈りいたします。