「虎は死して皮を残し、人は死して名を残す」という諺があります。人々は世を去る時、自分の名前が祝福された姿で語られ残されることを望みます。しかし私たちクリスチャンは、自分の名前と跡ではなく、イエスの美しい焼き印だけを残すため努力しなければなりません。今日の御言葉は、一生涯イエス様だけを誇り、イエスの焼き印を残してから天国に向けた神様の人、使徒パウロの姿を見せています。

1.使徒パウロの唯一な誇り
 使徒パウロは一時、教会とイエス様を信じる聖徒たちを迫害するのに先立った人でした。福音を伝えていたステパノ執事が石を投げられて殉教した時、その傍に立ち、彼の死が正しいことだと思い、聖徒たちが迫害されてエルサレムから様々な地域に散らされた時には、大祭司長に公文書を貰って、彼らを捕らえるために行くほどでした。しかし彼は教会を迫害するためダマスコに向かって行く途中、光の中で臨まれたイエス様に出会います(使徒9:3)。そしてこの経験は、彼の人生を変えました。生きておられるイエス様との出会いの後、彼は一生涯主の十字架だけを誇り、それ以外に誇りとするのは決してないと断言しました(ガラテヤ6:14)。このように、イエス様と真に会った人は、絶対自分を誇りません。ただイエス様だけが彼の誇りになり、彼が似ていくお方になるからです

2.使徒パウロが身に帯びているイエス様の焼き印
 1世紀ローマ帝国には奴隷制度が盛んで、持ち主は奴隷の身に烙印を押し、誰の所有であるのかを表わしました。この時、イエス様のしもべであることを言っていた使徒パウロは、自分の身にイエスの焼き印を帯びていると告白しました(ガラテヤ6:17)。主イエス様の福音のため牢に入れられたり、むち打たれたり、飢えたり、各種の危険に置かれ、獅子に投げられ、死に直面していたパウロの身は、苦しみの傷に満ちていました(Ⅱコリント11:23-27)。これがまさに彼が言ったイエスの焼き印でした。私たちが歩むべき十字架の道は、イエス様により涙を流し、苦しみを受ける道、福音のため生きる道であります。そのように生きることで、私たちの身と心に残されるその跡、それはまさにイエスの焼き印であります

3.主イエス・キリストの恵み
 神様は、イエスの焼き印を帯びて生きている人々に主の恵みを注いでくださいます(ガラテヤ6:18)。私たちは、主イエス様の恵み無しにはただ一日も、一時間でも正しく生きることができない存在です。イエス様の恵みが私たちの中で満たされる時、イエス様のための苦難も耐え忍ぶことができ、痛みと苦しみすら喜びながら十字架の道を歩むことができます。「神の恵みによって、私は今の私になりました」(Ⅰコリ15:10)と告白した使徒パウロのように、一生涯主の恵みを覚えて、喜びと感謝が満ち溢れる人生、イエスの焼き印だけを残す人生を生きる私たちになりますように、主の御名によってお祈りいたします

2024.10.06. ヨイド純福音教会 主日礼拝 Youtube


おすすめの記事