信仰生活というのは、天国に至る日まで「信仰を持って」生きることです。私たちはイエス様を救い主として信じ救われ、約束の御言葉を信じ、守り行うことで成熟な信仰に至ります。さらにイエス様の中にある永遠のいのちに対する信仰と確信を通して、天国に入るようになります。このように信仰のすべての過程には信じる心が入っています。私たちは一生涯を通して、神様から認められる信仰の人として生きていかなければなりません。
1.問題の解決者になるイエス様
マルコの福音書は、イエス様がカぺナウムで御言葉を伝えた時、多くの人々が集まったため家の戸口のところまで隙間もないほどであったと語ります(マルコ2:1-2)。しかしその町には中風を患い、絶対絶望の中で生きていた人がいました。イエス様が近くにいるという話を聞いた4人の友たちは、中風の人を担いでイエス様のみもとに連れて行こうと決断をしました。どのような問題、絶望の中でおかれていたとしてもイエス様の御前に信仰を持って行く人はその問題の解決者になられる主に会って奇跡と恵みを体験することができます。
2.不可能を乗り越える信仰
4人の友たちが中風の人を連れてイエス様がいる家の前に至った時、そこはすでに人がたくさんいて、足の踏み場もない状況でありました。しかし彼らはそこで歩みをやめなかったのです。代わり屋根に上って中風の人が寝ている寝床をつり下ろすほどの穴を開けて、ついにイエス様の前に中風の人が至るようにしました(マルコ2:4)。私たちは4人の人が見せた退かない信仰を見習わなければなりません。不可能な状況であったとしても、ただイエス様を見上げて絶対肯定の信仰で進み出て、その不可能を乗り越えて勝利するようにしてくださる神様に出会う私たちになるようにお祈りします。
3.イエス様から認められる信仰
イエス様は屋根をはがして病気で苦しんでいる友を連れてきた4人の信仰に注目しました。聖書はイエス様が「彼らの信仰を見て」中風の人の罪を赦すと同時に、病気を癒されたと語ります(マルコ2:5)。神様が注目されることは私たちの信仰です。神様の子どもである私たちは、人に良く見せるのではなく、主に信仰を認められる人にならなければなりません。天国に至るその日までイエス様に認められる信仰の人になって栄える人生を生きる私たちにならなければなりません。