「人生はどこから来て、どこに行くのか」。この世を生きる間誰をも思い浮かべる質問です。一生涯労苦して多くの事を得たとしても、それが人生の究極的な意味と方向に対する答えには至りません。世の富貴映画とすべての楽しみを享受したソロモン王は人生の最後の時「空の空、すべては空」(伝1:2)と告白しました。私たちの人生は手ぶらで来て、手ぶらで帰る寄留者のような人生であることを忘れてはいけません。
1.旅人である人生
へブル人への手紙の記者は、聖書に記録されている信仰の先祖たちがこの地で外国人とか旅人のような人生を生きたと語ります(へブル11:13)。代表的に、イスラエルの12部族の先祖であるヤコブは、自分の兄エサウから憎まれて叔父の家があるハランに向かって離れました。その道は約900㎞にもなり、昼は暑すぎて、夜は恐ろしい寒さが来る荒野の道でした。この寂しく苦しい道はヤコブの人生全般を要約して置いたような旅程でありました。後々エジプトで総理になった息子ヨセフの招きでエジプトに入った時、ヤコブはファラオの前でこのように言いました。「私がたどってきた年月は百三十年です」(創47:9)。ヤコブの告白のように私たちキリスト人たちも旅人である人生を生きます。定着民ではなく寄留者として、故郷から離れて生きる多文化家族とともに、この地でしばらくの間留まっていることだけです。この短い人生を虚しく生きることではなく、いつもイエス様と共にしながら絶対肯定、絶対感謝の姿勢をもって任された使命を全うしていく私たちになるようにお祈りします。
2.私たちが帰るべき故郷
この世は私たちが留まる永遠な故郷ではありません。私たちの故郷は神様がおられる天の御国、即ち天国です。そのためキリストの中にいる私たちに死は終わりではなく、永遠の世界でとこしえの人生を生き始める過程にすぎません。聖書は私たちより先に信仰を持って生きた先祖たちが「故郷を求めている者」だと語ります(へブル11:14)。またイエス様は私たちのためその故郷で場所を用意するため先にそこに行かれると語られました(ヨハネ14:2-3)。イエス様を救い主として信じ救われた人々は、誰でも天にある私たちのたましいの故郷に行って神様とともにとこしえまで生きることができます。また天国の希望を抱いて生きる人には人生の試練と苦難すべてを乗り越えて勝利をすることができます。心の中でいつも私たちが行くべき天国の故郷を抱いて、イエス様の再臨を期待しながら生きる私たちすべてになるように切にお祈りいたします。